ちょっと前に一部で話題の『関心領域』を見てきた。そこそこ人が入ってて、でも年齢層は高め。まあ時間帯によるのかもしれないので即断は避ける。以下感想。

*SPOILER ALERT*
基本的にネタばれが問題になるような類の作品ではないと思うが、いくつか作中のストーリー展開や表現について触れているので、ネタばれ絶禁の方にはお勧めしない。

『関心領域』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=kk2H0CVbOG4 

「関心領域」ということばは、パンフレットによれば、「アウシュビッツ強制収容所を取り囲む40平方キロメートルの地域を表現するためにナチス親衛隊が使った言葉」であるという。ある種の婉曲表現ではあるのだろう。Martin Amisによる同名の小説があり、本作の製作者はそのタイトルを踏襲したが、Amazonの当該書籍の紹介ページをみると(読んでない)、内容的には異なるようだ。

“The narrative rotates among three main characters: Paul Doll, the crass, drunken camp commandant; Thomsen, nephew of Hitler's private secretary, in love with Doll's wife; and Szmul, one of the Jewish prisoners charged with disposing of the bodies. Through these three narrative threads, Amis summons a searing, profound, darkly funny portrait of the most infamous place in history.”

Martin Amis (2014). The Zone of Interest: A novel. Knopf Canada.
https://www.amazon.co.jp/dp/B00JI54HGG

本作ではこの小説のような架空のキャラクター「Paul Doll」ではなく、そのモデルとなった実在の収容所長ルドルフ・ヘス(正確にはRudolf Franz Ferdinand Höß、ナチスの副総統で1941年に英国に逃亡したRudolf Walter Richard Heßとは別人)とその家族が収容所に隣接する家で「平和」な日常生活を送るさまを描いている。もちろん本作が歴史的事実をすべてそのまま再現したものではないことに注意すべきであることはいうまでもないが、彼らの「関心領域」が壁ひとつ隔てた収容所で起きていた惨劇には及ばず、家の敷地の中の「幸福」な生活に限られていた(その意味でダブルミーニングになっている)というのは、概ね実態をとらえていると考えてよいのだろう。

収容所長の家は実際にアウシュビッツの第1収容所と隣接する場所にあり、間には壁があった(第1収容所は主に強制収容所として使われていて、多くの虐殺が行われた第2収容所からは離れていたらしいが、ここにもガス室や火葬場はあったという)。そこで撮られたヘス家の家族写真は現存するが、その壁が写ったものは1枚もないらしい。本作ではその無機質な壁が美しく手入れされた庭の向こうに見えるが、収容所の内部のようすは描かれない。ただ壁越しに、収容所の建物の屋根や、煙突から黒い煙が上がっているさまが、幸福そうな、それでいて退屈な家庭生活の背景として見えるだけだ。

しかし全編を通じてこの家では通奏低音のように、死体を焼くためであろうボイラーの音が鳴り続け、時折悲鳴や怒号、そして銃声が聞こえてくる。一家の夫であり父でもある所長ルドルフはもちろんそこで何が行われていたかを知っていた、というかむしろ所長として自ら指揮していたわけだが、どうもその妻ヘートヴィヒは詳しくは知らなかったらしい。もちろん、だからといってそれが当然だったとはいえまい。どうしたってそうした音は聞こえてくるわけで、この立派な邸宅を訪れた彼女の母は異様な状況に気づき、何も告げず早々に立ち去るし、一家が川で水遊びをしていると収容所からの灰が流れてきてあわてて岸に上がるといった描写もある(実際にヘスの娘インゲブリギットが川に黒い灰が流れてきたと後に証言している)。いずれにせよ、知ったうえで見ている観客にとって、円満な家族生活の描写としてこれほど不穏なものはそうはなかろう。実際にそうした音が聞こえていたかどうかはわからないが、彼らが気づかないはずはなかった、という製作者の主張がみてとれる。

本作の中で大きなエピソードは主人公ルドルフの転勤をめぐるものだ。(壁の向こうさえ気にしなければ)自然豊かな環境で、あちこち手を入れた立派な邸宅で豊かに暮らすこの生活を失ってしまうのは嫌だと妻ヘートヴィヒは激高する(これも証言がある)。なんとか転勤を避けようとするがかなわず、夫は転勤することになるが、妻は夫に「一人で行け」と言い、夫は単身赴任することになる。当時のドイツにおいて単身赴任がどうとらえられていたのかは知らないが、少なくともヘス一家にとっては(壁の向こうで何が起きているかよりはるかに)重大な関心事項だったわけだ。結局いろいろあって夫は妻子が暮らすアウシュビッツの「平和」な暮らしに戻ることができる。一家にとってはめでたしめでたしだが、当然隣では虐殺が続いている。

ラストで突然現代の博物館になっているアウシュビッツのようすが描かれるあたりが少々わかりにくかったが(こういうところが実にヨーロッパ映画っぽい)、そこにも製作者の意図がよくあらわれている。この作品は過去を描いたものではあるが、描かれた問題は現代のものでもある。今まさに私たちは、私たちの「関心領域」がどこまでなのか、その外に何があるかと問われているわけだ。

そのあたりも含めて、本作を見ながら思い出したのは『この世界の片隅に』(2016)だ。主人公ずずさんの夫は軍人ではなく軍属、義父は広海軍工廠の技師で、直接人殺しに関わるわけではないし、それほど豊かな生活を送っているわけでもないが、すずさんの「関心領域」が概ね自身が暮らす北條家の周辺に限られ、近くにも住んでいたはずの朝鮮半島出身者たちには及んでいなかった(知識がなかったわけではなかろう)と自覚するさまが作中でも描かれている。本作の妻ヘートヴィヒもユダヤ人から没収した毛皮のコートをためらいなく身にまとったりするわけで、境遇はだいぶちがうが、ドイツにもいた「もう1人のすずさん」でもあったように思われる。

「関心領域」のヘスは無関心でも「凡庸」でもない ナチ研究者の警鐘
https://digital.asahi.com/articles/ASS660RYNS66UCVL016M.html

夫ルドルフや妻ヘートヴィヒは無関心でも「凡庸」でもなかった、と主張する上掲記事には、必ずしも異論を唱えるものではないが、本作の製作者たちの意図からはポイントがずれている。この記事でインタビューされている研究者の方はナチスの悪行を否定したり矮小化したりする人たちへの警戒心が強いようで(実際そういう人たちは少なからずいて、そういう人たちに辟易しているのだろう。たいへんご苦労さまなことである)、上掲記事にもそれが色濃くあらわれているのだが、本作が「関心領域」をタイトルとしているのは、ルドルフやヘスがアウシュビッツで行われていたことにまったく気づいていなかった(だから「罪」は軽い)と言っているわけではない。どうしても目に入り耳にするはずの悪行をあえて見ないようにしていた、あるいは見ているのに何も感じなかったという意味での「無関心」だ。「無関心」だから罪が軽いのではなく、「無関心」であったこと自体が罪だというわけだ。

そしてアーレントの著作で有名になったアイヒマンなどナチスの人々の「凡庸な悪」論も、ナチスの悪行を矮小化するものではない。本作の文脈では、私生活では平和に暮らしていた彼らが同時に持ち合わせていた闇の部分を現代の私たちもまた持っているのだということを意味するだろう。現代の私たちも条件がそろえば、多少ためらいながら、あるいは何らの躊躇もなく、他人を苦しめ、死に追いやる。アジアでの旧日本軍の蛮行を当時の日本のメディアがどう伝え、一般の人々がどう感じていたかは知っている人も多いはずだ(そもそも当時大日本帝国はナチスドイツと同盟関係にあった。多くの現代日本人は無意識に英米視点を内面化しているが当時の日本人は「あちら側」なのだ)。そして今も、あろうことかかつてナチスに苦しめられた人々の子や孫が似たようなことをしているのを私たちはメディアを通して目撃している。

「彼ら」が私たち善良な庶民とはまったく異なる種族の「悪魔」ではなく、私たちと地続きの存在だということは、「彼ら」が悪ではないと主張するものではなく、逆に私たち自身が抱える「悪」に光を当てるものだ。「彼ら」と「私たち」がそう大きくはちがわないという主張は、彼らの「悪」を矮小化しているのではなく、私たち自身の内なる「悪」を否定したり過小評価したりしてはならないということを指摘するものととるべきだろう。本作ラストで現代のシーンが突如挿入されるのはおそらくそういう意味だ。本作は主人公たちの平和な生活を描写することで、私たち自身が大なり小なり持っている「無関心」なり「凡庸な悪」なりの存在をつきつけてくる。

ヘスは今でもネオナチの人々に人気であるらしい。そのロジックは理解できないが、そうした人々の排外主義的な主張や行動は彼らの「関心領域」のありようを示すものであり、それを本作のヘス夫妻のそれを通じてみてとることができるかもしれない。彼らの望みは、本作が描いたヘス邸のような、美しく手入れされた閉じた空間での快適な暮らし(それがかつて現実に存在したかどうかは別の話だ)なのだろう。壁の向こうで何が起きていても、そこで自分たちが何をしていても気にせず、自分たちの快適な生活を守りたい、あるいは取り戻したいというわけだ。

そして何より重要なのは、そうした願望は程度の差こそあれ、私たちの心の中に大なり小なりあるということだ。もちろん、だからといって「関心領域」を世界のあらゆる問題にまで広げることはできない。「神の子」でもない私たちが人のすべての罪を引き受ければ心がこわれてしまうだろうし、それだけで世界中の問題が解決するわけでもない。そもそも世の中は善か悪かですっぱり二分できるほど単純にできてはいないし、「悪」を倒せば「善」が実現すると期待できるほど甘くもない。しかしそれでも、私たちは私たち自身の「関心領域」がどこまでなのか、その外で何が起きているのかについて、もう少し意識的であるべきなのではないか。本作はそういう問いかけのように思われる。

アウシュビッツ(ホロコースト百科事典)
https://encyclopedia.ushmm.org/content/ja/article/auschwitz-1
映画『関心領域』を観た感想、…とルドルフ・ヘス一家のその後について。
https://note.com/ms2400/n/n20b8a0eb4572
父はアウシュヴィッツ強制収容所の所長でした それでも父を愛している!独女性衝撃の告白 (その1)
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/eb58fdb3d9e9f889f238ddec1630c1dd3d22cfca
父はアウシュヴィッツ強制収容所の所長でした それでも父を愛している!独女性衝撃の告白 (その2)
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/49f6fc24a102cb2ab4b6602d74b2a87afe2eb9d4