戦後まもない盛んなる昭和時代から平成にかけてのエピックドラマ。なので、歌舞伎の舞台となる劇場や稽古場だけでなく、その周辺の路地や街の景色、スクリーンの枠に入る全てが完全に作り込まれている。観る側だけでなく、演じる側をも捉えて、中途半端な構えではいられないよう、映画側がしっかり追い込んでくれる。

いつもなら本編を観ながら寝てしまう妻が3時間寝なかった。それだけの握力がある映画なんだと思う。全ての演技陣にも制作にも一点の揺らぎもない。そのまま観てしまえる。「あー凄い映画だったね」と感嘆して終われる。

けれど、おれの中には大きな問いが残った。

====ここからネタバレ====











タイトルにある「国宝」。単なる「人間国宝」という意味だけなのか?もっと裏に大きな意味があると期待してた。「国」の「宝」。国が認める宝、なわけだから、その奥や裏にも一点の曇りもない、はず。

けれども、喜久雄(吉沢亮)が四代目花井白虎になるまでの間には、映画で描かれたような苦難があった。ちょっと間違えば、国宝認定なんて、何も知らない「国」が「宝」の位を「与えてやる」みたいな行為だと捉えられかねない。そこに対する葛藤、芸道と政治の衝突みたいなのを期待してたけど、それは無かった。

そして「葛藤」といえば、喜久雄と俊介=花井半弥(横浜流星)の間に、決定的・致命的な憎しみ合いがあったわけでもない。競争心や嫉妬はあったけど、半弥が命をかけて "お初" になる舞台を、喜久雄=三代目半次郎は全身全霊で助けたのだ。ドラマを盛り上げるためだけに憎悪や悪意を設定する演出は好きじゃない。このような仕立ては健やかで好感さえ持てる。

でも、やはり、なんか、暗くて重い「嫉妬」「憎悪」を描く余地は無かったのかな…とも思うのだ。醜聞で世間が揺らいでも、核となる盟友はちゃんといてくれてるわけで、「喜久雄どうなるねん?」というスリルが増すかといえばそうでもない。

さらに、三代目半次郎が四代目花井白虎となり、人間国宝になった時。娘の言葉で全てが救われてしまった、と感じてしまった。本当なら「あなたの芸は凄い、中毒になる程素晴らしい。でもあなたのことは死んでも憎んでやる」という気持ちなんじゃないか?

その時の白虎の表情が、虚無に満ちていて忘れられない。そこにおれの問いがある。あれは「自分の芸が自分の娘をも漂白してしまった絶望感」なんじゃないかと。憎悪や嫉妬や恨みは、ある意味最も人間らしい感情で、それこそが生きる証・愛の証とさえ言えるほどのもの。それさえも漂白して、捨てた娘に「おめでとう」とまで言わせてしまったこと、それは一体何で、でもそれを突き止める気力ももう無い…という、喜久雄の絶望だったんじゃないかと思うのだ。

渾身で撮ったであろう喜久雄=四代目白虎が舞う「鷺娘」。ハッキリ言う。ここには劇伴は要らない。ただ歌舞伎の音曲を、衣擦れと息づかいを聞かせて欲しかった。そして、カメラもあれほど大きく動かなくて良い。 “人” の手による演出をできるだけ介在させず、「美の依童(よりわら)」となってしまった喜久雄=四代目白虎を静かに見せて欲しかった。最後に喜久雄が光に包まれて「綺麗やな」とつぶやくけれど、そうじゃない。ただ喜久雄は忘我していて、喜久雄が光を放つ側に行ってしまったように見せて欲しかった。

芸を極めて、人が人のまま人で無くなっていく様子を見せて欲しかった、と痛烈に思う。結構残酷なこと言ってると自分でも思うけど、そこまでこの映画は観ているおれのことを刺激してくれた。いつまで経っても自分の限界を超えられなくてグダグダやっている自分にとって、映画も音楽も芸術も小説もマンガも本当にすごくて「どっか狂ってないと創造はできないんだ」と思い込まされてしまう。だから、もうちょっとハッキリ「狂うまで」を見たかったんだと、振り返っている。

いや、そういうことに気づかせてくれる映画だったんだ。
だからやっぱり、この「国宝」って映画は凄いんだ。